新城貞夫 shinjo sadao


 

●著者略歴

1938年 サイパンに生まれる。
1962年 第8回角川短歌賞次席
1970年 村上一郎・桶谷秀昭共同編集「無名鬼」に作品発表
1973年 現代短歌大系11巻、現代新鋭集(三一書房)に百首採録
2013年 歌文集『ささ、一献 火酒を』
2015年 『アジアの片隅で 新城貞夫歌文集』
2016年 第50回沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞
2017年 歌集『Café de Colmarで』
2018年 随想集『遊歩場にて』
2018年 『妄想録──思考する石ころ』

●『ささ、一献 火酒を』あとがきより

詩は聖の領域に属する。若い時からの信仰であり、買いかぶりである。いかなる領域も塀であり、壁であり、柵であり、収容所である。囲い込み、閉じ込め、拘束する。自由へ飛翔する精神にとって耐えようがない、牢獄である。詩は自らの領域、聖の閉じられた空間を破砕するだろうか。
倭歌・和歌・短歌。三十一文字の鉄の鎖で結ばれ、張りめぐらされている詩の形式。日本人の喉の構造、その震動がこの韻律を選んだだけである。だが、古代日本人と一部戦後派知識人と沖縄の人とは喉の構造や震動の仕方が違う。沖縄には琉歌という別の定型詩がある。沖縄の定型詩人は短歌を書くにしろ、琉歌を詠むにしろ、いくらか無理をする。流れる口の滑りがない。
エッセイの形は決まっていない。宛先不明の、しかし誰かへの郵便ではある。内容も定形封筒からはみ出る。あっち行き、こっち行き、わがまま自在である。文学の一分野ではある、ならば虚構である。

 

●『満身創痍の紅薔薇』あとがきより

長い間、人生の大半と言ってもいいほど、定型詩に関わってきた。それゆえに、それとも他に理由があってか、新城は日々、定型におさまる生活をしている。むろん、定型をわずかにずれることはある。以下、あまりにアンニュイな一日の記録である。

早朝、目白がやって来て、柿の実を突く。一日はかく始まる。

六時、目を覚ます。「古楽の楽しみ」の時間である。アルビノーニやテレマン、ヘンデル、バッハ、モンテヴェルディ等が私を呼んだのではない。新城の体が長時間の睡眠に耐えられないだけである。
七時、近所を散歩する。老人にあう日もある。会わない日もある。この街から老人がいっせいに消えた、という物語があった。国家が老人狩りを行ったのだ。
新聞二紙を買う。似たり寄ったりの内容で、殺人・強盗・事故など推理小説顔負けである。時には何かの抗議─単なるアリバイ作りの大会もある。
八時、朝食。テレヴィはSEXUAL HARASSMENTやPOWER HARASSMENTとか騒いでいる。むろん、女性の上役からセクハラを受けた、と若い男性が訴えたこともある。眠くなる。
十時、室内旅行。立ったり、座ったり、歩いたり、草木を眺めたりする。突然、思いついてドイツ語の二〜三行を筆写する。と言ったってIch liebe dichくらいのものか。
十二時、昼食。新城はどちらかと言えば肉食系である。二週間に一度、そうだ、那覇に行こう! デパートの地下で薬膳粥を食する。太りすぎの体を削ぎ落すためである。効果はない。
十三時、テレヴィを視る。アメリカ映画「めぐり逢い」。登場人物はこの世とあの世の境に在って、自在に行き来する。幽明界は一体である。
十五時、昼寝。もし目覚めなければ永眠である。かくて世界は終わるか、どうかはこっちの知ったことではない。まあ、向こう様の勝手である。
十七時、おれは八十歳の坂を無事に下ることができるか? とヒマラヤ山脈の天辺で考える。

日が暮れる。蝙蝠がやって来て、柿の実を齧る。一日はかく終わる。